羽咋市で、十数年来、毎年行われているイベントとのこと。
折口父子記念会とその事務局である羽咋市が行っているようです。
今年は没後70年ということで、思い切って参加してきました!
【目次】 |
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…いやいや、ちょっと待って待って。羽咋市、父子って唐突やないですか😯
藤井春洋(はるみ)さんは、羽咋市の出身の折口信夫の門弟。折口家に住み込んで約15年間、折口先生の生活の世話をし、養嗣子になりましたが、硫黄島で戦死。羽咋には2人のお墓があります。
一の宮
早朝に雨が降りましたが、それが嘘のように晴れて、良い天気。
集合は朝8:30、気多大社です。
市の中心からバスで約10分、最寄りの「一の宮」バス停に到着。周辺は所々に昔の面影を残す、静かな町です。
ちょっと時間があったので海を眺めてみたり。
うーむ、波の果てに目を凝らす…。
気多大社は万葉集にも登場する古い社で、背後の「入らずの森」は聖域とされています。
集合場所の駐車場へ行きますと、3~40人ほどが集まっておられました。ご友人、ご夫婦、ご家族など、折口先生だけでなく地域のイベントとして参加されている雰囲気。羽咋市のボランティアガイドのTシャツを着た方も多く、何度も参加されているようでした。
市の職員さんから、地図(『父子碑巡りマップ』と『羽咋市の折口マップ』の両面刷り。わかりやすくてお勧め✨羽咋駅にもあった)と、資料(父子の年譜、参考資料リスト)をいただいて、スタート。
冒頭父子記念会会長さんの挨拶がありまして、折口先生が初めて羽咋を訪れたのは昭和2年6月26日で、毎年この時期に行っているそうです。今日と同じような気候だっただろう、との言葉に感慨深くなりました。行って良かった…🥲
折口父子の歌碑
会長さんの案内で、早速気多大社内の歌碑へ。駐車場と参道の間の植え込みにあります。
石の性質上、深く彫ると割れてしまうため、彫りが浅いそう。
昭和33年11月海岸に近い、参道口に建てられ、その後、現在の場所に移されたそうです。
折口父子の歌碑
氣多のむら 若葉くろずむ時に来て
遠海原(とおうなばら)の 音を聴きをり 迢空
折口信夫(おりくちしのぶ)(筆名・釋迢空(しゃくちょうくう))が、昭和二年六月、國學院大學の学生らと初めて羽咋を訪ね、気多大社に参拝したときの歌。昭和五年発行の歌集『春のことぶれ』に収められた「氣多はふりの家」十九首の冒頭に掲げられている。
折口は国文学や民俗学の分野で貴重な論文を数多く残し、その独自の学問は「折口学」と呼ばれている。昭和二八年九月三日死去。自ら墓石を選び碑銘をしたためた一ノ宮海岸近くの墓に養嗣子春洋とともに眠る。
春畠に 菜の葉荒びし ほど過ぎて
おもかげに師を さびしまむとす 春洋
折口春洋(おりくちはるみ)(旧姓藤井)は、羽咋市寺家町に生まれ、國學院大學で学んだのち師折口信夫と同居。大学教授、歌人として将来を期待されたが太平洋戦争に応召。
右の歌は、昭和十九年四月に折口が養子入籍の件で金沢歩兵聯隊の春洋を訪ね面会したときの歌。歌集『鵠(たづ)が音(ね)』所収の「別れ来て」と題された一首。
春洋は折口の養嗣子となるが、昭和二十年三月十七日硫黄島で戦死。享年三十八。
会長さんからは、他にも、春洋さんが、折口先生が指導する『鳥船』というグループで短歌をはじめたことや、いかにも鞄持ちしている写真などなどをご説明いただきました。
こちらが折口先生。
迢空
けたのむら わかば黒ずむ ときに来て とほうなばら のおとを ききをり
文字は藤井家にある額が元になっているそう。
こちらが春洋さん。
春畠に菜の葉荒びしほど過ぎて おもかげに師をさびしまむとす
春洋
入営中に面会といっても、加藤守雄『わが師折口信夫』によると、春洋さんの勤務の都合で時間がなく、駅のホームで立ち話だったようです。
文字は國學院大学の書家の先生(羽田春埜さん)です。
若くして硫黄島で憤死した春洋さんに歌碑にふさわしい文字の遺っているわけがないのだ。
――『土手の見物人』伊馬春部,1975
続きまして、気多大社の社殿脇へ。
会長さんに案内していただいたのですが、昭和3年8月折口先生と学生さんたちがこの石段で撮ったと思われる写真が残っています。
実際にここに座って撮ったかも? と実感できるの楽しいー😊
折口信夫の句碑
次は句碑に向かいました。気多大社を出て、山沿いの道を北へ。入らずの森の裏にあります。
山の中へ…山の中へ…そうでした、これはウォーキングイベントでした…。
以前行った時に帰り道を間違え、こんなところに迷い込んでしまいました😱
(2021年10月撮影)
山道を10分ほど歩きまして、池を見下ろす小高い場所に句碑がありました。
左写真)碑の表
くわっこうの なく村すぎて 山の池 迢空
鳥の声も遠くで聞こえると思うほど、ひっそりした場所です。
右写真)碑の裏
くわっこうの なく村すぎて 山の池
折口父子墓の建□(立?)
昭和二十四年七
月十一日の作
□者 伊馬春部
池田弥三郎
藤井巽
建設寄進
高井松濤
折口信夫の句碑
くわっこうの
なく村すぎて
山の池 迢空
昭和二一年四月末、寺家町の藤井家に滞在した折口博士を、当主の藤井巽(春洋の兄)が案内し、この裏山を散策した。
この時、巽氏が「この地方では、貯水池を堤(つつみ)と呼んでいる」と言うと、博士は「それは池の水を囲んで包んでいるから「つつみ」で、池の全体を指しても言うし、その土手のことも「つつみ」と言うのです」と言われたという。
その三年後の昭和二四年七月、博士が折口父子墓の除幕のため再び来羽した時、寺家町の大社焼で小皿に筆を走らせ、この句を書き残した。折口博士の没後一〇年にあたる昭和三八年九月、この句をもとに、的場町の高井松涛氏の寄進により、句碑が建立された。
藤井巽さんは、折口先生から「くろんぼ」というあだ名をもらい(看板の写真だと、真ん中の白いシャツと髭の方ですが、日に焼けてるっぽい?)、家族のように親しいお付き合いだったようです。
どーでもいい話ですが、「たつみ」「はるみ」とどうやら名前の最後を「み」で統一されていた(確か妹さんも「み」がついていたかと)みたいですね。
(2)に続きます。