根拠はないけど、そう思う

折口信夫にはまったものの、推し方がよくわからない…

折口信夫碑めぐりウォーキング(2)

 

mitubs.hatenablog.com

 (1)の続きです。

【目次】

 

 句碑の後、そのまま山道を進みまして、どこに向かっているのかと思っていたら、『大社焼』の前に出ました。地図を見ると、入らずの森の裏をぐるっと回るルートなんですが、次行っても一人では再現できなさそうやな😓

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(2021年10月撮影)

 この『大社焼』で、折口先生が先程の句碑の俳句をお皿に書いたとのことです。前回来た時に伺ったのですが、今も絵付けや陶芸体験をさせていただけるようですよ。

 

藤井家

 その後、春洋さんの生家へ。いただいたマップによると、個人が管理されているため普段は非公開ですが、特別に中を見学させていただきました。

 まず、庭がめっちゃ気持ち良い😊 一面緑で、早朝雨が降ったせいか、葉は潤み、緑の色がふかふかしていました。

春洋の生れた家は、

門を入ると、露地庭に

古いたぶの幹が立って居て

高い梢に深い繁り

 ―だが、あまり高く繁ってゐて

 庭中を蔭にしない。

(略)

廿三年前にはじめて来た時も

此とほりだった気がする

十年まへに来たのも、

かう言ふ日のかう言ふ静かな日に

やっぱり ふっと這入って来て

かう言ふ風にならんでゐる鳥籠に

ぽたり〱ちゝゝ、

と動いて居る鳥を

 見あげてゐたと思ふ。

――『手帖 詩草稿』(昭和25年頃)折口信夫,1998※折口信夫全集35

 門を入ったところに古いタブノキがあったんですが、もしかしてあの木?(しっかし、この詩はツライわ…😔)

 庭の奥に碑がありました。

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迢空

はくいの海 うなさか はるゝ このゆふべ

妣が國見ゆ 見に いでよ こら

 

 建物も立派な木造の家屋です。春洋さんの歌を思い出してみたり。

故郷の家のしづけき飯時(イヒドキ)に わがまじらへば、賑はしと言ふ

――『鵠が音』「故郷雑事」折口春洋

 写真で見たことがある縁側に腰掛けて会長さんのお話を伺い、写真で見たことがあるお座敷の祭壇にお参りさせていただきました。(咄嗟に作法がわからずピンチに陥りましたw)

 春洋さんが生まれ育ち、折口先生が何度もやってきたお宅に来られて、感動しすぎて感動しすぎて意識朦朧🫠ぅわぁーん、参加して良かった…😭

 

大穴持像石神社とタブノキ

 ところで、昭和2年に初めて羽咋にやってきた折口先生は、翌年の昭和3年にもやってきます。目的は民俗学の採集で、昭和5年発行の『古代研究』には「たぶ」の写真が多く掲載されています。

 大穴持像石神社も『古代研究』に掲載されました。


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大穴持像石(おおあなもちかたいし)神社 寺家町

 

大国主神の別名である大穴持神を祟神とし平安中期編纂『延喜式』において小社に列せられ国幣を与えられた社格をもつ。

創立年代は明らかでないが、古来気多神社の摂社とされ、中世には畠山家、近世には前田家の尊崇を受けた。

明治に入り村社、後に県社に列せられ、集落の産土神として信奉され今日に至っている。

境内入口横にある大石は、地震おさえの霊石といわれ、江戸末期文久年間、その霊験を軽んじた藩役人がこの石を穢したところ、またたくまに異変が生じ、その夜の内に亡くなったとの記録が残る。

 

この地とつながりの深い民俗学者折口信夫(おりくちしのぶ)博士は、論文集『古代研究』を出版するにあたり、昭和3年、当地出身の弟子・藤井春洋とともにこの社を訪れ、折口民俗学の象徴ともされるタブノキの大樹に覆われた社叢の写真を撮り、口絵に使っている。

 口絵には「漂着神(ヨリガミ)を祀ったたぶの社」と添えられていて、「追ひ書き」で触れられています。

 「たぶ」の写真の多いのは、常世神の漂著地と、其将来したと考へられる神木、及び「さかき」なる名に当る植木が、一種類でないこと、古い「さかき」は、今考へられる限りでは、「たぶ」「たび」なる、南海から移植せられた熱帯性の木である事を示さう、との企てがあつたのだ。殊に肉桂たぶと言はれる一種が、「さかき」のかぐはしさを、謡ひ伝へるやうになつた初めの物か、と考へたのである。殊に、二度の能登の旅で得た実感を、披露したかつたのである。此側の写真は、皆藤井春洋さんが、とつてくれたのである。

――『古代研究』「追ひ書き」折口信夫

 羽咋市歴史民俗資料館の方(記念会の事務局長さん)によりますと、付近で大規模な遺跡が出土しており、古代から人々が暮らしていたようです。

 また次に行った大多毘(おおたび)神社は社のない、竹林のような”空間”。「たぶ」の木を祀る火の神様とのことで、アニミズムの雰囲気ですね。

 羽咋の海や、神様の前に繁るたぶを見ていると、海の果てに常世があると考えたかもしれない人々の営みが想像されて、折口先生の実感をちょっと体感できた…?…ンか?🤔

 

折口博士 父子の墓

 春洋さんの歌に出てくる随身門という木造の門を通り過ぎて、海岸近くの藤井家の墓地へと向かいました。

 墓地の手前には、解説の看板と、折口先生の弟子である岡野弘彦先生の歌碑があります。


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 岡野先生の歌碑

荒御魂

二つあひよる

み墓山

わが哀しみも

ここに埋めむ

弘彦

 わかりみしかない…。

 歌碑の奥を進んだ、小高い場所に藤井家の方々のお墓があり、その中に父子墓があります。

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もっとも苦しき

たゝかいに

最くるしみ

死にたる

むかしの陸軍中尉

折口春洋

ならびにその

父 信夫

の墓

 いや、もう、何と言えばいいものか…。折口先生自らの手によるものです。

 初めて来た時、想像よりも小さいな、と感じたのですが、言葉の印象が苛烈で、大きいもののように思っていたのかもしれません。

 

 全集の書簡集の手紙から、墓を建てる経緯が伺えるのですが、先生の気持ちが何とも…。(当時はこんな思いをした方々がたくさんいらっしゃったんでしょうが)

 巽さんと墓を建てる話はしたもののひょっとしたら春洋さんが助けられていて帰還してくるかもしれないからしばらく見合わせること(昭和21年12月藤井巽宛)、最初は大阪の折口家の墓に建てたかったけど、春洋さんが一人だと寂しいだろうから、羽咋に建てることにしたこと(昭和24年11月折口和夫宛)などなど。

 

 四角い墓石は、羽咋駅前の石材屋さん(会長さんによると今はパン屋さんになっている場所だそう)で先生自ら選んだものです。

いしきざむ 羽咋の 石工 ゐねぶれば

けだし わが名を けづりなむかも

迢空

――『鵠が音』表紙(皿に書かれた短歌) 釋迢空

 

 会長さんからのお話で知ったのですが、作家・詩人佐藤春夫羽咋工業高校の校歌を依頼された時に『(折口さんの)お参りがてら行ってもいい』と引き受けたとか。

 先生の命日の頃には年祭が行われるとのことです。

 

 さて最後は、これまたどこをどう歩いたのか、昔の一宮駅前付近、気多大社の参道口に出ました。そこから気多大社に戻りまして、解散しました。

 

 距離は1.8キロ、所要は約2時間。2年前にも羽咋に来たのですが、今回は解説を伺えたり、特別に見学させていただいたり、と一人ではできない碑巡りでした。

 これからも長く続くと良いなーと思いました😊

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