折口先生のお生まれは、自選年譜や全集の年譜によりますと『明治20年(1887年)2月11日大阪市浪速区鴎町1丁目(当時は西成郡木津村市場筋)』とのこと。
現在浪速区に『鴎町』はありませんが、『鴎町公園』があります。
行ってみました。
【目次】 |
---|
敷津松之宮・大国主神社
大阪メトロ四つ橋線『大国町』②出口を出た北側に神社があります。
ところで
木津では既に電線に障るとの理由で其柱も切られ、今では八阪社の絵馬堂の柱となつて了うたのである。
――『髯籠の話』折口信夫
とう/\、松の宮の境内に、絵馬堂を拵へるといふ事で、竪棒を切つて、其柱にしてからは、祭りが来ても、だいがくは出なくなつた。
――『だいがくの研究』折口信夫
この”八阪社”、”松の宮”のようです。無論、S20年に空襲を受けたため、絵馬堂も柱も残っていません。境内の一角に碑がありました。
(2022年1月撮影)
読まれへん…折口先生独特の文字…迢空文字。黒っぽい方は書きくだしのようです。
春はやきこぶしのうれひさきみちて たゞにひと木はすべなきものを 迢空
鴎町公園
さて、神社から北西の方向に進み、『大阪市立浪速図書館』(お膝元だけあって本棚の一角が折口文庫になっています)から更に西に行くと、『鴎町公園』に到着です。
公園の北西側に、2つの碑が建っていました。
表は『増井の清水の感覚』からの抜粋。
裏には略歴。
折口信夫(おりくちしのぶ)
1887(明治20)年 この地に生まれる
昭和58年3月大阪市
"偉大な学者"…ざっくりやな🤭
『生誕の地』の裏です。
(2021年3月,2023年4月撮影)
”この近く”ということで、実際の生家の場所は、
この碑の南南東約三十メートルの地点が、生家の表口に当る。
――『折口信夫の世界ー回想と写真紀行』芸能学会,1992
南東約三十メートル?ぐらいのところ(公園内)に町名の変更の碑がありました。
旧町名継承碑
『鴎町一~二丁目』
当町は明治初頭、西成郡木津村の一部であったが、明治三〇年四月大阪市に編入され南区木津の一部となり、同三三年四月木津鴎町一丁目の全域および木津鴎町二丁目・木津勘助町一~二丁目の各一部となった。大正一二年七月各町の各一部をもって木津鴎町一丁目の全域および木津鴎町二丁目の一部となった。同一四年四月行政区画の変更にともない浪速区に編入され、同月鴎町一丁目の全域および鴎町二丁目の一部となった。
昭和五五年一一月住居表示の実施にともない鴎町一~二丁目は敷津西一~二丁目の各一部となった。
※鴎は(鴎のメを品)
つまり折口先生が生まれた時は木津村、自選年譜が書かれた頃は浪速区鴎町1丁目、そして現在は敷津西一丁目なんですね。
桜の時期に行くと、きれいですよ!
(2022年3月撮影)